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中国河南省 白馬寺の塔 伝 光 録(抜粋)

釈迦牟尼佛章    摩訶迦葉章

菩提達磨章     大鑑慧能章

洞山良价章     天童如浄章

永平道元章


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◆ 『伝光録』首章(釈迦牟尼佛章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    首章(釈迦牟尼佛章)

【本 則】
 釈迦牟尼佛、見明星悟道曰、我与大地有情、同時成道。 〈釈迦牟尼佛、明星を見て悟道していわく、「我と大地有情と同時に成道す」〉
【機 縁】
 それ釈迦牟尼佛は、西天の日種姓なり。十九歳にして子夜に城を踰え、檀特山にして断髪す。それよりこのかた、苦行六年、遂に金剛座上に坐して、蛛網を眉間に入れ、鵲巣を頂上に安じて、葦、坐をとおし、安住不動、六年端坐、三十歳臘月八日、明星の出しとき、忽ち悟道、最初獅子吼するに是言あり。爾しより以来、四十九年、一日も独居することなく、暫時も衆の為に、説法せざることなし。一衣一鉢欠くことなし。三百六十余会、時々に説法す。終に正法眼蔵を摩訶迦葉に付囑す。流伝して今に及ぶ。実に梵漢和の三国に流伝して正法修行すること之を以て根本とす。彼の一期の行状、以て遺弟の表準たり。設い三十二相、八十種好を具足すると雖も、必ず老比丘の形にして、人人にかわることなし。故に在世よりこのかた、正像末の三時、彼の法儀を慕う者、佛の形儀をかたどり、佛の受用を受用して、行住坐臥、片時も自己を先とせざることなし。佛々祖々単伝し来たりて、正法断絶せず。今の因縁分明に指説す。設い四十九年、三百六十余会、指説すること異なりと雖も、種々因縁、譬諭言説、この道理に過ぎず。
【提 唱】
 いわゆる我とは釈迦牟尼佛に非ず。釈迦牟尼佛も、この我より出生し来る。唯釈迦牟尼佛出生するのみに非ず。大地有情も皆是れより出生す。大綱を挙るとき、衆目悉く挙るが如く、釈迦牟尼佛成道するとき、大地有情も成道す。唯大地有情成道するにのみに非ず、三世諸佛も皆成道す。恁麼なりと雖も、釈迦牟尼佛に於て、成道の思いをなすことなし。大地有情の外に釈迦牟尼佛を見ること勿れ。設い山河大地、森羅万像、森々たりと雖も、悉く是れ瞿曇の眼睛裏を免がれず。汝等諸人、また瞿曇の眼睛裏に立せり。唯立せるのみに非ず、今の諸人に換却しおわれり。又瞿曇の眼睛肉団子となりて、人人の全身箇箇壁立万仞せり。故に亘古亘今明明たる眼睛、歴歴たる諸人と思うこと勿れ。諸人即ち是れ瞿曇の眼睛なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。若し恁麼ならば、何を呼んでか、成道底の道理とせん。
 且問す、大衆、瞿曇の、諸人と与に成道するか、諸人の、瞿曇と与に成道するか。若し諸人の、瞿曇と与に成道するといい、瞿曇の、諸人と与に成道するといわば、全くこれ瞿曇の成道にあらず。因て成道底の道理と為すべからず。成道の道理、親切に会せんと思わば、瞿曇、諸人、一時に払却して、早く我なることを知るべし。我の与なる、大地有情なり。与の我なる、是れ瞿曇老漢に非ず。子細に点検し、子細に商量して、我を明らめ、与を知るべし。設い我を明らめたりというとも、与を明らめずんば、亦た一隻眼を失す。然と雖も我と与と一般に非ず、両般に非ず。正に汝等の皮肉骨髄、尽く与なり。屋裏の主人公、是れ我なり。皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず。畢竟していわば、庵中不死の人を識らんと欲せば、豈今這の皮袋を離れんや。然れば大地有情の会をなすべからず。設い春夏秋冬に、転変し来たりて、山河大地時と与に異なりと雖も、知るべし、是れ瞿曇老漢の、揚眉瞬目なる故に、万像之中独露身なるなり。撥万像也、不撥万像也。法眼いわく、甚麼の撥不撥とか説かん。又地蔵いわく、甚麼を喚でか万像と作さん。然あれば、横参竪参し七通八達して、応に瞿曇の悟処を明らめ自己の成道を会すべし。恁麼の公案子細に見得し、一一に胸襟より流出して、前佛及び今時の人の語句をからず、次の請益の日を以て下語説道理すべし。山僧、亦た此一則下に卑語を着けんことを思う。諸人聞かんと要すや。
【頌 古】
 一枝秀出老梅樹。荊棘興時築著来。 〈一枝秀出す老梅樹、荊棘時と築著来る〉


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◆ 『伝光録』第一章(摩訶迦葉章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第一章(摩訶迦葉章)

【本 則】
 第一祖、摩訶迦葉尊者、因世尊拈華瞬目、迦葉破顏微笑。世尊曰、吾有正法眼蔵涅槃妙心、付囑摩訶迦葉。 〈第一祖、摩訶迦葉尊者、因みに世尊拈華瞬目し、迦葉破顏微笑す。世尊いわく、吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に付囑す〉
【機 縁】
 摩訶迦葉尊者、姓は婆羅門。梵には迦葉波、此に飲光勝尊という。尊者生る時、金光、室に満て、光りことごとく尊者の口に入る、因て飲光と称す。其身金色にして、三十一相を具足せり。唯烏瑟白毫の欠たるのみなり。多子塔前にして、初て世尊に値いたてまつる。世尊、善来比丘とのたもうに、鬚髪すみやかに落ち袈裟体に掛る。乃ち正法眼蔵を以て付囑し、十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず。但形の醜悴し衣の麁陋なるを見て、一会悉く恠しむ。之に依て、処処の説法の会毎に、釈尊座を分ち迦葉を居らしむ。然しより衆会の上座たり。唯釈迦牟尼佛一会の上座たるのみに非ず。過去諸佛の一会にも不退の上座たり。知るべし、是れ古佛なりということを。唯諸の声聞の弟子の中に排列すること勿れ。然るに霊山会上八万衆前にして、世尊拈華瞬目す。皆心を知らず、默然たり。時に摩訶迦葉独り破顏微笑す。世尊いわく、吾に正法眼蔵涅槃妙心円妙無相の法門あり、悉く大迦葉に付囑すと。
【提 唱】
 いわゆる彼時の拈華は祖祖単伝し来りて、妄りに外人をして知らしむることなし。故に経師論師、多くの禅師の知るべき所に非ず。実に知りぬ、其実處を知らざることを。然も恁麼なりと雖も、恁麼の公案、霊山会上の公案に非ず。多子塔前にして付囑せし時の言なり。伝燈録、普燈録等に載る所は、是れ霊山会上の説ということ非なり。最初に佛法を付囑せしとき、是の如きの式あり。故に佛心印を伝うる祖師に非ざれば、彼の拈華の時節を知らず、又彼の拈華を明らめず。諸禅徳、子細に参到し、子細に見得して、迦葉の迦葉たることを知り、釈迦の釈迦たることを明らめ、深く円妙の道を単伝すべし。
 拈華は暫く置く、彼の瞬目せし所、人人明らめ来るべし。汝等よのつね揚眉瞬目すると、又是れ瞿曇の拈華瞬目せしと、一毫髪も隔らず。汝等語話微笑すると、摩訶迦葉破顏微笑せしと、全く毫髪も異なることなし。然れども、彼の揚眉瞬目せし者を明らめざれば、西天に釈迦あり迦葉あり、自心に皮肉骨髄あり、許多の眼華、多少の浮塵、無量劫来、未だ曾て解脱せず、未来劫も亦沈淪すべし。若し一度彼の主人公を識得せば、摩訶迦葉まさに、汝諸人の鞋裏に在て動指することを得ん。知らずや、瞿曇揚眉瞬目せし所に、瞿曇乃ち滅却し了ることを。迦葉破顏せし所に、迦葉乃ち得悟し来ることを。是れ則ち吾有に非ずや。正法眼蔵却て自己に付囑し畢りぬ。故に喚で迦葉と為すべからず、喚で釈迦と為すべからず。曾て、一法の他に与うるなく、一法の人に受くるなし。之を喚で正法と為す。彼れを顕わさんが為に、華を拈じて不変なることを知らしめ、破顏して長齡なることを知らしむ。恁麼に師資相見、命脈流通す。円明の了知、心念渉らず、正しく意根を坐断して鷄足山に入り、遥に慈氏の下生を待つ。故に摩訶迦葉今に入滅せず。
 諸人、若し親く学道して子細に参徹せば、迦葉不滅のみに非ず、釈迦も亦た常住なり。故に汝等諸人、未曾生より直指単伝して、古に亘り今に亘りて築著ガイ(石+盍)著す。故に諸人二千年前の昔を思慕すること勿れ。唯急に今日に弁道せば、迦葉鷄足に入らず、正に扶桑国に在て出世することを得ん。故に釈迦の肉親今猶お暖かに、迦葉微笑また更に新たならん。恁麼の田地に到り得ば、汝等却て迦葉に嗣ぎ、迦葉却て汝等に受けん。七佛より汝等に到るのみに非ず、汝等まさに七佛の祖師たることを得ん。無始無終古来今を絶して、即ち是れ正法眼蔵付囑有在ならん。之に依て釈迦も迦葉の付囑を得て、兜卒天に今に有在なり。汝等も霊山会上にして有在不変易なり。
 いうことを見ずや、常在霊鷲山、及余諸住處、大火所焼時、我此土安穏、天人常充満と。唯霊山会上のみ所住処というに非ず、豈梵漢本朝も亦た洩るることあらんや。如来の正法流転して一毫髪も欠ることなし。若し然れば此会は、是れ霊山会たるべし。霊山は是れ此会たるべし。唯諸人の精進と不精進とに依て、諸佛、頭出頭沒せるのみなり。今日も頻りに弁道し、子細に通徹せば、釈尊直に出世なり。唯汝等自己不明に依て釈尊昔日入滅す。汝等已に佛子たり。何ぞ佛を殺すべけんや。故に急に弁道して速かに慈父と相見すべし。よのつね釈迦老漢、汝等と倶に行住坐臥し、汝等と倶に言語伺候して、一時も相い離るることなし。一生若し彼の老漢を見ずんば、諸人悉く皆不孝の人たらん、已に佛子という。若し不孝の者たらば、千佛の手も牛及ばず。今日大乗の子孫また恁麼の道理を指説せんとするに卑語あり。諸人、聞かんと要すや。
【頌 古】
 可知雲谷幽深処。更有霊松歴歳寒。 〈知るべし雲谷幽深の処。更に霊松の歳寒を歴る有り〉


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◆ 『伝光録』第二十八章(菩提達磨章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第二十八章(菩提達磨章)

【本 則】
 第二十八祖、菩提達磨尊者。因二十七祖。般若多羅尊者問、於諸物中、何物無相。師曰、不起無相。祖曰、於諸物中、何物最大。師曰、法性最大。 〈第二十八祖、菩提達磨尊者、因みに二十七祖、般若多羅尊者問う、諸物の中において、何物か無相なる。師いわく、不起無相なり。祖いわく、諸物の中において、何物か最大なる。師いわく、法性最大なり〉
【機 縁】
 師は刹利種なり。本は菩提多羅と名く。南印度香至王の第三子なり。彼王、佛法を崇重して倫等に度越せり。有時、無価の宝珠を以て般若多羅に施す。王に三子あり、一は月浄多羅、二は功徳多羅、三は菩提多羅と名く。尊者、太子の智慧を試みんと欲して、施す所の宝珠を以て三王子に示していわく、能く此宝珠に及ぶ物有りや否や。第一第二皆いわく、此珠は七宝の中の尊なり、固に踰る物なし。尊者の道力に非んば誰か能く是を受けん。第三菩提多羅いわく、此は是れ世宝なり。未だ上とするに足らず。諸宝の中に於ては法宝を上なりとす。此は是れ世光なり。未だ上とするに足らず。諸光の中に於ては智光を上なりとす。此は是れ世明なり、未だ上とするに足らず。諸明の中に於ては心明を上なりとす。此珠の光明は自ら照すこと能わず、必ず智光を借て光弁す。既に此を弁じ了れば、即ち是れ珠なる事を知る。既に此珠を知れば、即ち其宝なることを明らむ。若し其宝なることを明むれば、宝自ら宝に非ず。若し其珠を弁ずれば、珠自ら珠に非ず。珠自ら珠に非ざることは、必ず智珠を仮て世珠を弁ずればなり。宝自ら宝に非ざることは、必ず智宝を仮て法宝を明むればなり。師の道、智宝なる故に今世宝を感ず。然れば則ち師に道あれば其宝即ち現じ、衆生に道あれば其宝即ち現ず。衆生に道あれば心宝亦然なり。祖、其弁説を聞て、聖降なることを知り、定て法嗣なることを弁ずれども、時未だ到らざるを以て黙して混ぜしむ。即ち問ていわく、諸物の中に於て何物か無相なる。師いわく、不起無相なり。祖いわく、諸物の中に於て何物か最も高き。師いわく、人我最も高し。祖いわく、諸物の中に於て何物か最も大なる。師いわく、法性最大なり。是の如く問答して、師資心通ずと雖も、且らく機の純熟を俟つ。後に父王崩御す。衆皆号絶するに、菩提多羅独り柩の前にして入定、七日を経て出づ。乃ち般若多羅の処に往て出家を求む。般若多羅、時の到ることを知て、出家受具せしむ。後に師、般若多羅の室にして七日坐禅す。般若多羅広く坐禅の妙理を指説す。師聞て無上智を発す。乃ち般若多羅示していわく、汝諸法に於て已に通量を得たり。夫れ達磨は通大の義なり、宜く達磨と名くべし。因て号を菩提達磨と改む。師、出家伝法して跪きて問ていわく、我、既に得法す。当に何れの国に到てか佛事を作すべき。時に般若多羅示していわく、汝、得法すと雖も且らく南天に留りて、我滅後六十七載を待て、当に震旦に往て大器を接すべし。師又いわく、彼土に大士の法器となるを得べしや。一千年の後、又難起ることあるべしや。般若多羅示していわく、彼土に菩提を得ん者、挙て数うべからず。小難ありて起ることあらん。宜く善く自ら降すべし。汝至らん時、南方に住まること勿れ。彼れ唯有為の功業を好て佛理を見ず。即ち偈を示していわく、「路行跨水復逢羊。独自栖栖暗渡江。日下可憐双象馬。二株嫩桂久昌昌。」林下に一人を見ん、当に道果を得べし。又いわく、「震旦雖濶無別路。要仮児孫脚下行。金鶏解銜一粒粟。供養十方羅漢僧。」是の如く子細に印記を受て、左右に執侍すること四十年。般若多羅入滅の後、同学佛大先は般若多羅の印記を受て祖と化を並べ、佛大勝多は更に徒を分て六宗を為す。師、六宗を教化して名十方に仰ぎ、六十余載に向んとするに、震旦縁熟するを知て、異見王の所に往て告ていわく、三宝を敬重し以て利益を繁興すべし。我、震旦の縁熟せり。事了りなば便ち還るべし。異見王、涕涙悲泣していわく、此国何の罪かある、彼土何の祥かある。然れども震旦の事、既には果てなば、速に還りたもうべし。父母の国を忘るること勿れ。王躬ら送て直に海セン(土+而+大)に至る。師、重溟に汎で三周を経て南海にとつぐ。梁の大通元年丁未(527)歳九月二十一日なり。(或は普通八年ともいう。三月に改元す)。之に因て最初梁の武帝に相見す、云云。南に住まること勿れという、是なり。之に因て、既に魏に往く。一葦を浮ぶという。尋常、人思わく、一葦というは一つのあしなりと。之れに依て一枝の葦の葉の上に祖の身を載るは非なり。いわゆる一葦というは渡りの小船なり。あしには非ず。其形あしに似たり。復逢羊というは梁の武帝なり。暗渡江というは揚州の江なり。是の如くして急に嵩山の少林寺にとつぐ。則ち少林寺の東廊に居す。人、是を測ることなし。終日打坐す。因て壁観婆羅門という。乃ち喧しく説かず、易く示さずして九年を経たり。九年の後、道副、道育、総持、慧可等、四人の門人に、皮肉骨髄を付してより、其機已に熟せることを知りぬ。時に菩提流支と光統律師という二人の外道あり。師の道徳天下に布き、人悉く帰敬するを見て、其憤おりに堪えず、乃ち石を擲げて当門の牙歯を欠くのみに非ず、五度大毒を上つる。祖、乃ち其毒薬を六度の時、盤石の上に置しかば、即ち石裂けき。吾化縁、既に尽きぬと。乃ち思く。吾先師の印記を受て、神旦赤県にして大なる気象を見き、定て知ぬ、大乗の法器ありと。然れども梁の武帝相見以来、機契わず人を得ず。徒に冷坐せしに、独の大士神光を得て、我所得の道悉く以て伝通す。事既に弁し縁則ち尽きぬ。逝去すべしといいて端坐して逝す。熊耳峰に葬る。後に葱嶺にして宋雲に相逢うという説あれども、実には熊耳峰に葬る、是れ正説なり。
【提 唱】
 夫れ達磨は正に二十七祖の記ベツ(廾+別)に依て震旦の初祖なり。其最初太子の時、宝珠を弁ぜし因み、尊者問ていわく、諸物の中に於て何物か無相なる。師いわく、不起無相なりと。夫れ設い空寂というとも、実に是れ無相なるには非ず。之に依りていう、不起無相なりと。然れば壁立万仞と会し、明明たる百草と会得して、物物他に非ず、唯己れと法位に住すと識得せん。即ち是れ不起底に非ず。然れば無相に非ず。未だ天地をも分たず。何に況や聖凡をも弁ぜんや。這箇の田地、総て一法の萌すべきなし。一塵の汚し得るあらず。然れば是れ本来、物なきに非ず。方に虚廓霊明にして惺惺として暗からず。此処に物の比倫するなく、曾て他の伴い来ることなき故に最大にして最大なり。故にいう、大を不可思議と名くと。亦不可思議を名て法性という。設い無価の宝珠も比するに堪えず。明白の心光も象どるべからず。故に此は是れ世光なり、未だ上とするに足らず、智光を上なりとすと。是の如く了別し来る。実に是れ天至の智慧の所説なりと雖も、再び七日坐禅の中にして、坐禅の妙旨を説くを聆て、無上道智を発しき。然れば知るべし、子細に弁得して恁麼の田地に精到し、方に佛祖の所証あることを知り、先佛の己証を明め得て、須らく是れ佛祖の児孫なるべきこと、此尊者に於て殊に其例証あり。既に自然智慧の如くなりと雖も、重て無上道智を発しき。後尚お未来際、護持保任すべき用心を参徹し、四十年左右に給士し、委悉に究弁す。来記を忘れず六十年を送り。三周の寒暑を巨海の波濤に経たりき。終に不知の国に至て、冷坐九年の中に大法器を得て、始て如来の正法を弘通し、先師の洪恩を報ず。艱難は何れよりも艱難なり。苦行は何れよりも苦行なり。
 然るを近来諸の学人、時既に澆薄にして機もと昧劣なるに、尚お得やすからんことを願う。恐らくは是の如くの類、未得謂得の類、増上慢人退亦佳矣の輩たるべし。諸仁者、適来の因縁を子細に参徹して、愈よ高き事を知り、心を砕き身を捨て親切に弁道せば、諸佛の冥薫ありて直に佛祖の所証に契うことあらん。一智半解に足れりと思うこと勿れ。又卑語あり。聞かんと要すや。
【頌 古】
 更無方所無辺表。豈有秋毫大者麼。 〈更に方所無く辺表無し、豈秋毫よりも大なる者有らんや〉


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◆ 『伝光録』第三十三章(大鑑慧能章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

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※第三十三章(大鑑慧能章)中《嶺南人に佛性なし》の語は、人権上注意を要する
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 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第三十三章(大鑑慧能章)

【本 則】
 第三十三祖、大鑑禅師。師在黄梅碓坊服労。大満(弘忍 602-675)禅師、有時、夜間入碓坊、示曰、米白也。師曰、白未有篩在。満以杖打臼三下。師以箕米三簸入室。 〈第三十三祖、大鑑禅師。師、黄梅の碓坊に在りて服労す。大満禅師、有時、夜間に碓坊に入りて示していわく、米白まれりや。師いわく、白まるも、未だ篩うこと有らざる在り。満、杖を以て臼を打つこと三下す。師、箕米を以て三たび簸して入室す〉
【機 縁】
 師は姓は盧氏。其先は范陽の人。父は行トウ(稲 禾→王)。武徳中に南海の新州に左官せられ、遂に籍を占めて止る。父を喪す。其母、志を守て鞠養す。長ずるに及で、家尤も貧窶なり。師、樵釆して以て給す。一日、薪を負て市中に至る。客の金剛経を読むを聞きて。応無所住而生其心というに至て感悟す。師、其客に問ていわく、此は何の経ぞ、何人に得たるや。客いわく、此は金剛経と名く。黄梅の忍大師に得たり。師、遽に其母に告るに、法の為に師を尋るの意を以てす。直に韶州に抵て、高行の士、劉志略という者に遇て、結て交友と為る。尼無尽蔵は即ち志略が姑なり。常に涅槃経を読む。師、暫く之を聴て、即ち為に其義を解説す。尼、遂に巻を執て字を問う。師いわく、字は識らず。尼、之を驚異して郷里の耆艾に告げていわく、能は是れ有道の人なり、宜く請して供養すべしと。是に於て、居人競い来て瞻礼す。近きに宝林古寺の旧地あり。衆議営緝し、師をして之に居らしむ。四衆雲霧の如く集り、俄に宝坊となる。師、一日忽ち自ら念じていわく、我れ大法を求む、豈中道にして止まるべけんやと。明日、遂に行て昌楽県の西、岩室の間に至る。智遠禅師に遇う。師遂に請益す。遠いわく、子を観るに神資爽抜にして殆ど常人に非ず。我れ聞く、西域の菩提達磨、心印を黄梅に伝うと。汝、当に彼に往て参決すべし。師、辞し去て直に黄梅に造り、五祖大満(弘忍 602-675)禅師に参謁す。祖問ていわく、何くより来る。師いわく、嶺南。祖いわく、何事をか求めんと欲す。師いわく、唯作佛を求む。祖いわく、嶺南人に佛性なし、若為ぞ佛を得ん。師いわく、人に即ち南北あり、佛性、豈然らんや。祖、是れ異人なりと知て、乃ち訶していわく、槽厰に着き去れと。能、礼足して退き、便ち碓坊に入て於杵臼の間に服労し、昼夜息まず、八月を経たり。祖、付授の時至ることを知て、遂に衆に告ていわく、正法難解なり。徒らに吾言を記して持して己が任と為すべからず。汝等、各自隨意に一偈を述べよ。若し語意冥符せば則ち衣法皆附せん。時に会下七百余僧の上座神秀は、学、内外に通じ、衆の宗仰する所なり。咸共に推称していわく、若し尊秀に非ずんば、疇れか敢て之に当らん。神秀、竊に衆の誉を聆て復た思惟せず。偈を作ること成り已て、数度呈せんと欲して行て堂前に至る。心中恍惚としてヘン(彳+扁)身汗流る。呈せんと擬すれども得ず。前後四日を経て一十三度偈を呈すること得ず。秀、乃ち思惟すらく、如かず、廊下に向て書著せん。他の和尚の看見するに従て。忽若し好しといわば、出て礼拝して是れ秀が作といわん。若し不堪といわば、枉て山中に向て年を数えん。人の礼拝を受て更に何の道をか修せんと。是夜三更、人をして知らしめず、自ら燈を執て偈を南廊の壁間に書して、心の所見を呈す。偈にいわく、「身是菩提樹。心如明鏡台。時時勤払拭。勿使惹塵埃。」〈身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に勤めて払拭して、塵埃を惹かしむること勿れ〉祖、経行して忽ち此偈を見て、是神秀の述る所と知て、乃ち讃歎していわく、後代、之に依て修行せば亦た勝果を得ん。各をして誦念せしむ。師、碓坊に在て忽ち偈を誦するを聆て、乃ち同学に問う、是れ何の章句ぞ。同学いわく、汝知らずや。和尚法嗣を求め、各心偈を述べしむ。此れ則ち秀上座の述る所なり。和尚深く歎賞を加う。必ず将に附法伝衣せん。師いわく、其偈云何。同学、為に誦す。師、良久していわく、美なることは則ち美なり。了ずることは則ち未だ了ぜず。同学訶していわく、庸流、何をか知らん。狂言を発すること勿れ。師いわく、子、信ぜずや。願くは一偈を以て之を和せん。同学答えず、相視て笑う。師、夜に至て一の童子に告て引て廊下に至る。師、自ら燭を秉て、童子をして秀の偈の側に一偈を写さしめていわく、「菩提本非樹。明鏡亦非台。本来無一物。何処惹塵埃。」〈菩提本と樹に非ず、明鏡も亦た台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん〉
 此偈を見て一山上下皆いう、是れ実に肉身の菩薩の偈なり。内外喧しく称す。祖、是れ盧能が偈なりと知て、乃ちいわく、是れ誰か作せるぞ、未見性の人なり、といいて即ちかき消す。之に依て一衆悉く顧りみず。夜に及で、祖、竊かに碓坊に入て問ていわく、米白まれりや未しや。師いわく、白まれり。未だ篩うること有らざること在り。祖、杖を以て臼を打つこと三下す。師、箕の米を以て三び簸て入室す。祖示ていわく、諸佛出世、一大事の為めの故に、機の大小に隨て之を引導す。遂に十地三乗頓漸等の旨あり、以て教門を為す。然も無上微妙秘密円明真実の正法眼蔵を以て、上首大迦葉尊者に附す。展転伝授すること二十八世達磨に至り、此土に届て可大師を得、承襲して以て吾に至る。今、法宝及び所伝の袈裟を以て、用て汝に附す。善く自ら保護して断絶せしむること無れ。師、跪て衣法を受て啓していわく、法は則ち既に受く、衣、何人にか附せん。祖いわく、昔達磨初て至る。人未だ信ぜず、故に衣を伝えて以て得法を明す。今信心已に熟す。衣は乃ち争いの端なり。汝が身に止めて復た伝えざれ。且らく当に遠く隠れて時を俟て行化すべし。いわゆる受衣の人は、命、縣糸の如くならん。師いわく、当に何の処にか隠るべき。祖いわく、懐に逢わば即ち止まれ、会に遇わば且らく蔵れよ。師、礼足し已て衣を捧て出づ。黄梅の麓に渡あり、祖、自ら送りて此に到る。師、揖していわく、和尚、速に還るべし。我既に得道す。当に自ら渡るべし。祖いわく、汝既に得道すと雖も、我れ尚を渡すべしといいて、自から竿を取て彼の岸に渡し畢り、祖、独り寺に帰る。一衆皆知ることなし。其より後、五祖上堂せず。衆、来て諮問することあれば、我道は逝きぬ。或るが問う、師の衣法、何人か得る。祖いわく、能者得たり。是に於て衆議すらく、盧行者、名は能。尋訪するに既に失せり。縣かに彼が得たるを知て、乃ち共に走り逐う。時に四品将軍、発心して慧明というありき。衆人の先と為り趁て大ユ(广+臾)嶺にして師に及ぶ。師いわく、此衣は信を表す、力を以て争うべけんや。其衣鉢を盤石の上に置て草間に隠る。慧明至りて之を揚げんとするに、力を尽せども揚らず。時に慧明、大におののきていわく、我れ法の為に来る、衣の為に来らず。師、遂に出て盤石の上に坐す。慧明作礼していわく、望むらくは行者、我が為に法要を示せ。師いわく、不思善不思悪、正与麼の時、那箇か是れ明上座本来の面目。明、言下に大悟す。復た問ていわく、上来、密語密意の外、還て更に密意ありや否や。師いわく、汝がために語る者は即ち密に非ず。汝若し返照せば、密は汝が辺に有らん。明いわく、慧明、黄梅に在りと雖も、実に未だ自己の面目を省せず。今指示を蒙る。人の水を飲で冷暖自知するが如し。今、行者は即ち慧明が師なり。師いわく、汝若し是の如くならば、吾と汝と同く黄梅を師とせん。明、礼謝して返る。後に出世せし時、慧明を道明と改む。師の上字を避ればなり。参ずる者あれば悉く師に参ぜしむ。
 師は衣法伝授の後、四県の猟師の中にかくして十年を経て後、儀鳳元年丙子(676)正月八日に至て南海に届り、印宗法師の法性寺に於て涅槃経を講ずるに遇う。廊廡の間に寓止す。暴風、刹旛をア(風+易)ぐ。二僧の対論を聞くに、一は旛動ずといい、一は風動ずという。往復酬答して未だ曾て理に契わず。師いわく、俗流の輙く高論に預ることを容すべしや否やといいて、直に風旛の動に非ず、仁者の心動なりというを以てす。印宗、竊に此語を聆て竦然として之を異とす。翌日、師を邀えて入室せしめ、風旛の義を徴す。師、具さに理を以て告ぐ。印宗、覚えず起立していわく、行者は定て常人に非ず。師は是れ誰とか為す。師、更に隠す所なく、直に得法の因由を舒ぶ。是に於て印宗、弟子の礼を執て禅要を受けんと請う。乃ち四衆に告ていわく、印宗は具足の凡夫なり。今肉身の菩薩に遇う。即ち座下の盧居士を指していわく、即ち此れ是なり。因て請て所伝の信衣を出して悉く瞻礼せしむ。正月十五日に至り、諸名徳を会して之が為に剃髪せしむ。二月八日、法性寺智光律師に就て満分戒を受く。其戒壇は即ち宋朝の求那跋陀三蔵の置く所なり。三蔵、記きいわく、後に当に肉身の菩薩あり、此壇に在て受戒すべしと。又梁の末に真諦三蔵、壇の側に於て手から二菩提樹を植て、衆にいいていわく、却後一百二十年に大開士あり、此樹下に於て無上乗を演べ、無量の衆を度せんと。師、具戒し已て此樹下に於て東山の法門を開。宛も宿契の如し。
 明年二月八日、忽と衆にいいていわく、吾れ此に居ることを願わず。旧隠に帰らんことを要す。時に印宗、緇白千余人と師を送りて宝林寺に帰る。韶州の刺吏韋拠、請して大梵寺に於て妙法輪を転ぜしめ、並に無想心地戒を受く。門人記録して目けて壇経と為す、盛に世に行わる。然して曹谿に返て大法雨を雨らす。覚者千数に下らず。寿七十六にして沐浴して坐化す。
【提 唱】
 乃ち瀉瓶の時にいわく、米白まれりや未しや。此米粒、正に是れ法王の霊苗、聖凡の命根。曾て荒田に在てくさぎらざれども自から長ず。脱白露浄にして汚染を受けず。然も是の如くなりと雖も、尚お簸ざることあり。若し簸来り簸去れば、内に通じ外に通ず。上に動き下に動く。臼を打つこと三下するに、米粒自から揃いて、心機忽ちに露わる。米を簸ること三度して、祖即ち伝わる。爾しより打臼の夜、未だ明けず。授手の日、未だカク(日+熏)れず。思うに夫れ大師は嶺南の樵夫、碓房の盧行者なり。昔は斧伐を事として山中に遊歴し、遂に明窓下、古教照心の学解なかりしかども、尚お一句の聞経に無所住の心生じ、今杵臼にたずさわりて碓坊に勤労す。曾て席末に参じて、参禅問答、決択なかりしかども、僅に八箇月の精勤に明鏡非台の心を照せしかば、夜半附授行われ、列祖の命脈伝わる。必ずしも多年の功行に依らざれども、唯一旦精細を尽し来ること明けし。諸佛の成道、本より久近の時節を以て量るべからず、祖師の伝、何ぞ古今の分域を以て弁ずることあらんや。
 然も今夏九十日、横説竪説、古今を批判し、麁言軟語、佛祖を指注す。微に入り細に入り、二に落ち三に落て、宗風を汚し家醜を揚ぐ。之によりて諸人、悉く理を通ずと思い、力を得たりと思えり。然れども親切に未だ祖意に冥符せざるが如し。行状すべて先聖に相似ならず。宿縁多幸なるに依て是の如く相見す。若し一志に弁道せば、須らく成弁すべきに、未だ涯シ(サンズイ+矣)に到らざる多し。尚お堂奥を窺わざるあり。聖を去ること時遠く、道業未だ成ぜず身命保ち難し。何ぞ後日を期せん。初秋夏末、既に或は東し、或は西する時節に当れり。旧に依て彼に散じ此に行かん。何ぞ妄りに一言半句を記持して、我這裏の法道といい、僅に一知半解を挙拈して、大乗門の運載とせんや。設い十分に其力を得たりとも、家醜尚お外に揚げん。何に況や妄称胡乱の説道をや。若し真実に此処に精到せんと思わば、昼夜徒らに捨てず、身心妄りに運ばざるべし。
【頌 古】
 打臼声高虚碧外。簸雲白月夜深清。 〈臼を打つ声高し虚碧の外、雲に簸する白月夜深うして清し〉


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◆ 『伝光録』第三十八章(洞山良价章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第三十八章(洞山良价章)

【本 則】
 第三十八祖洞山悟本大師。参雲巌。問云、無情説法什麼人得聞。巌曰、無情説法無情得聞。師曰、和尚聞否。巌曰我若得聞。汝即不得聞吾説法也。師曰、若恁麼即良介不聞和尚説法也。巌曰、我説法汝尚不聞。何況無情説法也。師於此大悟。乃述偈呈雲巌曰。也太奇也太奇。無情説法不思議。若将耳聴終難会。眼処聞声方得知。巌許可。 〈第三十八祖洞山悟本大師、雲巌に参ず。問うていわく、無情説法什麼人か聞くことを得ん。巌いわく、無情の説法無情聞くことを得。師いわく、和尚聞くや否や。巌いわく、我若し聞くことを得ば、汝即ち吾が説法を聞くこととを得ざらん。師いわく、若し恁麼ならば即ち、良介、和尚の説法を聞かざらん。巌いわく、我が説法すら汝尚お聞かず、何に況んや無情の説法をや。師此に於て大悟す。乃ち偈を述べ雲巌に呈していわく、也太奇也太奇、無情説法不思議、若し耳を将て聴かば終に会し難し、眼処に声を聞いて方に知ることを得ん。巌許可す〉
【機 縁】
 師諱は良介、会稽の人なり。姓は兪氏。幼歳にして師に従て般若心経を念ず。無眼耳鼻舌身意の処に至て、忽ち手を以て面を捫て師に問ていわく、某甲眼耳鼻舌等あり、何か故に経に無というや。其師駭然、之を異みていわく、吾れ汝が師に非ず。即ち指して五洩山の礼默禅師に往しめて披剃す。年二十一、嵩山に詣して具戒す。母の為に愛子として、兄亡し弟貧し。父亦先だちて亡じき。一度空門を慕て永く老母を辞し、誓ていわく、我れ道を得ずんば、再び古郷に還らじ、又親を拜せじと。是の如く誓いて郷里を辞す。卒に参学事了て後に洞山に住す。母一子に離れて他の覆育なきに似たり。日々師を尋ねて卒に乞丐の中に交わりて経行往来す。我子洞山に住すと聞て、慕て此に往き見んとするに、洞山固く辞して方丈室を鎖して入れず。相見を許さざるが為なり。是に依て母恨みて終に室外にして愁死す。死して後に洞山自ら往て彼乞丐し持る所の米粒三合あり、之を取て常住の朝粥に和して、一衆に供養せしめて以て雲程を弔う。久しからずして其母洞山の為に夢に告ていわく、汝志を守ること堅くして、我を見ざるに依て愛執の妄情立処に断え。彼の善根力に依て我れトウ(性 生→刀)利天に生じたりと。
【提 唱】
 祖師何れも其徳勝劣なしと雖も、洞山は此門の曩祖として、殊に宗風を興せしこと是の如く。親を辞し深く志を守りし力なり。参学の当時最初に南泉の会に参じ、馬祖の諱辰に値う。斉を修する次で、泉衆に問ていわく、来日馬祖の斉を設く、未審馬祖還て来るや否や。衆皆対うることなし。師出て対ていわく、伴あるを待て即ち来らん。泉いわく、此子後生なりと雖も甚だ雕琢するに堪たり。師いわく、和尚良を壓して賎と為すこと莫れ。次にイ(サンズイ+為)山(霊祐、南嶽下 771-853)に参ず。問ていわく、頃聞く南陽の忠国師、無情説法の話ありと。某甲未だ其微を究めず。イ(サンズイ+為)いわく、闍黎記得すること莫しや。師いわく、記得す。イ(サンズイ+為)いわく、汝試に挙すること一ペン(彳+扁)せよ看ん。師遂に挙す。僧問う、如何が是れ古佛心。国師いわく、墻壁瓦礫是。僧いわく、墻壁瓦礫豈是れ無情にあらずや。国師いわく。是。僧いわく、還て説法を解すや否や。国師いわく、常説熾然、説無間歇。僧いわく、某甲甚麼としてか聞かざる。国師いわく、汝自ら聞かず。他の聞者を妨ぐべからず。僧いわく、未審甚人か聞くを得ん。国師いわく、諸聖聞くことを得。僧いわく、和尚還て聞くや否や。国師いわく、我れ聞かず。僧いわく、和尚既に聞かずんば争でか無情の説法を解するを知らん。国師いわく、頼に我れ聞かず、我れ若し聞かば即ち諸聖に斉し。汝即ち我が説法を聞かざらん。僧いわく、恁麼ならば則ち衆生無分にし去るや。国師いわく、我れ衆生の為に説く、諸聖の為に説かず。僧いわく、衆生聞て後如何。国師いわく、即ち衆生に非ず。僧いわく、無情の説法何の典教にか拠る。国師いわく、灼然言の典を該ねざるは君子の所談に非ず。汝豈見ずや、華厳経いわく、刹説衆生説三世一切説と。
 師挙し了て、イ(サンズイ+為)いわく、我這裏にも亦た有り。ただ是れ其人に遇うこと罕れなり。師いわく、某甲未だ明らめず乞師指示せよ。イ(サンズイ+為)払子を竪起していわく、会すや。師いわく、某甲不会、請和尚説け。イ(サンズイ+為)いわく、父母所生の口、終に子が為に説かず。師いわく、還て師と同時に慕道の者ありや否や、イ(サンズイ+為)いわく、此去てレイ(サンズイ+豊)陵攸縣石室相連る、雲巌道人というあり、若し能く撥草膽風せば、必ず子が重する所たらん。師いわく、未審此人如何。イ(サンズイ+為)いわく、他曾て老僧に問う、学人師に奉せんと欲し去る時如何。老僧他に対していわく、直に須らく滲漏を絶して始て得べし。他いわく還て師の旨に違わざることを得んや無や。老僧いう、第一老僧這裏に在りということを得ざれ。師遂にイ(サンズイ+為)山を辞して径に雲巌に造る。前の因縁を挙し了て便ち問う、無情説法甚麼人か聞くことを得る。巌いわく、無情聞くことを得る。師いわく、和尚聞くや否や。巌いわく、我若し聞かば汝即ち我が説法を聞かざらん。師いわく、某甲甚麼としてか聞かざる。巌払子を竪起していわく、還て聞くや。師いわく、聞かず。巌いわく、我が説法すら汝尚お聞かず、豈況んや無情の説法をや。師いわく、無情の説法何の典教をか該ぬ。巌いわく、豈見ずや。彌陀経にいわく、水鳥樹林、悉皆念佛念法と。師此に於て省あり。此因縁国師の会に興り来て、終に雲巌の処に著実す。乃ち偈を述ていわく、也太奇也太奇。乃至眼処に聞く時方に知ることを得ん。師雲巌に問う、某甲余習未だ尽きざることあり。巌いわく、汝曾て甚麼をか作し来る。師いわく、聖諦も亦た為さず。巌いわく、還て歓喜すや未しや。師いわく、歓喜は則ち無にしもあらず、糞掃堆頭に一顆の明珠を拾い得たるが如し。師雲巌に問う、相見せんと擬欲する時如何。いわく、通事舎人に問取せよ。師いわく、見に問次す。いわく、汝に向て甚麼とかいわん。師雲巌を辞し去る時、問ていわく、百年後、忽ち人あり還て師の真を貌せしや否と問わば如何が祇対せん。巌良久していわく、祇だ這れ是れ、師沈吟す。巌いわく、价闍黎箇事を承当することは大に須らく審細にすべし。師猶お疑に渉る。後に水を過て影を覩るに因て前旨を大悟す。偈ありいわく、「切に忌む他に従いて覓ることを。迢々として我と疎なり、我れ今独り自ら往く、処処に渠に逢うことを得たり、渠今正に是れ我、我今是れ渠にあらず、応須に恁麼に会して、方に如々に契うことを得ん。」洞山一生参学の事了て、疑滞速に離る。因縁正に是なり。抑も此無情説法の因縁、南陽の張濆行者というあり。国師に問ていわく、伏して承わる和尚無情説法という、某甲未だ其事を体せず。乞和尚垂示したまえ。師いわく、汝若し無情の説法を問わば、他の無情を解して方に我が説法を聞くを得ん。汝但無情の説法を聞取し去れ。濆いわく、只如今有情方便の中に約す。如何が是れ無情の因縁。師いわく、如今一切動用の中、但凡聖両流都て少分の起滅なし。便ち是れ幽識にして有無に屬せず。熾然として見覚す。只其情識と繋執と無きことを聞く。所以に六祖いわく、六根対境の分別は識に非ずと。是れ即ち南陽の無情説法を談ぜし様子なり。即ちいわく、一切動用の中、但凡聖両流、都て少分の起滅なし。便ち是れ幽識有無に屬せず、熾然として見覚す。然るを尋常に人思わく、無情というは、墻壁瓦礫灯籠露柱ならんと。今国師の道取の如きは然らず。凡聖の所見未だ分たず。迷悟の情執未だ発せず。況や情量分別の計度に非ず。生死去来の動相に非ず。幽識あり。実に此の幽識熾然として見覚す。情識の繋執に非ず。故に洞山も応に須らく恁麼に会して方に如々に契うことを得んといえり。到る処独り自から行くと知らば、一切如々に契わざるときなし。故に古人いわく、曾て如の外の智の如の為に証せらるるなり、智の外の如の智の為に修せらるるなし。如々不動にして了々常知なり。故にいう、円明の了知心念に依らず。熾然の見覚即ち繋執に非ず。イ(サンズイ+為)山いわく、父母所生の口、終に子が為に説かず。又いわく、衆生聞くことを得ば、衆生に非ずと。是の如く諸師の提訓を受て、真箇の無情を会せし故に、一門の曩祖として恢に宗風を興す。然れば諸仁者、子細に熟看して、此幽識熾然に見覚し来る、之を無情という。声色の馳走なく、情識の繋縛なき故に因て無情という。実に是れ子細に彼道理を説取せるなるべし。故に無情と説くを聞て、妄りに墻壁の解を作すこと勿れ。唯汝等ち情念惑執せず、見聞妄りに分布せざるとき、彼幽識明明として暗からず、了了として明らかなり。此処取らんとすれども得ることなし。色相を帯びざる故に、 是れ有に非ず。捨てんとすれども離るることなし、遠劫より伴い来る故に、是れ無に非ず。尚お識知念度の情に非ず。何に況や四大五蘊を帯びんや。 
 故に宏智いわく、情量分別を離て智あり、四大五蘊に非ずして身ありと。即ち恁麼の幽識なり。常説熾然というは、いわゆる時として顕われずということなき、之を説という。彼をして揚眉瞬目せしめ、彼をして行住坐臥せしむ、造次顛沛、死此生彼、飢え来れば喫飯し、困し来れば打眠す。皆な悉く説なり。言語事業、動止威儀、重ねて是れ説なり。有言無言の説のみに非ず。都て堂堂として来り、明明として覆蔵せざる者あり。蝦マ(虫+麻)鳴き蚯蚓鳴くに到るまで、一切顕われ来る故に、常説熾然、説無間歇なり。子細に見得せば、必ず後日洞山高祖の如く、他の為に模範となることを得ん。且らく如何が此の道理を説取せん。
【頌 古】
 微微幽識非情執。平日令伊説熾然。   〈微微たり幽識情執に非ず、平日伊をして説くこと熾然ならしむ〉


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◆ 『伝光録』第五十章(天童如浄章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第五十章(天童如浄章)

【本 則】
 第五十祖、天童浄(1163-1228)和尚、参雪竇(1105-92)。竇問曰、浄子不曾染汚処、如何浄得。師経一歳余、忽然豁悟曰、打不染汚処。 〈第五十祖、天童浄和尚、雪竇に参ず。竇問うていわく、浄子、曾て染汚せざる処、如何が浄得せん。師一歳余を経、忽然豁悟していわく、不染汚の処を打すと〉
【機 縁】
 師は越上の人事なり。諱は如浄(1163-1228)。十九歳より教学を捨て祖席に参ず。雪竇(1105-92)の会に投じて便ち一歳を経る。尋常坐禅すること抜群なり。有時因て浄頭を望む。時に竇問ていわく、曾て染汚せざる処、如何が浄得せん。若しいい得ば汝を浄頭に充てん。師、措くことなし。両三箇月を経るに猶お未だいい得ず。有時、師を請し方丈に到らしめて問ていわく、先日の因縁道得ずや。師擬議す。時に竇示していわく、浄子曾て染汚せざる処、如何が浄め得ん。答えずして一歳余を経る。竇又問ていわく、いい得たりや。師、未だいい得ず。時に竇いわく、旧カを脱して当に便宜を得べし。如何ぞいい得ざる。然しより師聞て得力励志功夫す。一日忽然として豁悟し、方丈に上て即ちいわく、某甲道得すと。竇いわく、這回道得せよ。師、不染汚の処を打すという。声、未だ畢らざるに竇即ち打つ。師、流汗して礼拝す。竇即ち許可す。
 後、浄慈に在て彼の開発の因縁を報ぜん為に浄頭たり。有時、羅漢堂の前を過ぎしに、異僧ありて師に向いていわく、浄慈浄頭浄兄主、報道報師報衆人と。いい訖りて忽然として見えず。大臣丞相、聞て占なうていわく、聖の浄慈に主たることを許す兆なり。後に果して浄慈に主たり。諸方皆いう、師の報徳実に到れりと。十九歳の時、発心してより後、叢林に掛錫して再び郷里に還らず、然のみならず郷人と物語りせず。都て諸寮舎に到ることなし。又上下肩隣位に相語らず。只管打坐するのみなり。誓ていわく、金剛坐を坐破せんと。是の如く打坐するに依て、有時、臂肉の穿てる時もあり。然も尚お坐を止めず。初発心より天童に住するに六十五歳に及ぶまで、未だ蒲団に礙えられざる日夜あらず。初め浄慈に住せしより瑞巌及び天童に到るまで、其操行他に異なり。いわゆる誓て僧堂に一如ならんという。故に芙蓉より伝われる衲衣ありと雖も搭せず。上堂入室、唯黒色の袈裟トツ(綴 糸→衣)子を著く。嘉定の皇帝より紫衣師号を賜わると雖も上表辞謝す。尚お神秘して平生卒に嗣承を顕わさず。終焉のきざみ法嗣の香を焼く。唯世間愛名を疎くするのみに非ず、又宗家の嘉名をも恐るるなり。実に道徳当世に並びなく操行古今に不群なり。常に自称していわく、一二百年祖師の道すたる。故に一二百年より以来、我が如くなる知識未だ出でずと。故に諸方悉く恐れ慄のく。師は曾て諸方を誉めず。尋常にいわく、我れ十九歳より以来、発心行脚するに有道の人なし。諸方の席主、多くは祗管に官客と相見し、僧堂裏都て不管なり。常にいわく、佛法は各自理会すべし。是の如くいうて衆を拵らうことなし。今大刹の主たる、尚お是の如く胸襟無事なるを以て道と思い、曾て参禅を要せず。他の那裏に何の佛法かあらん。若し渠がいうが如くならば、何ぞ尋常訪道の老古錐あらんや。笑いぬべし、祖師の道、夢にも見ざることあり。
 平侍者が日録に多く師の有徳を記せる中に、趙提挙、州府に就て上堂を請せしに一句道得なかりし故に、一万テイ(金+延)の銀子、卒に受ることなくして返しき。一句道得なき時、他の供養を受けざるのみに非ず、名利をも受けざるなり。故に国王大臣に親近せず、諸方の雲水の人事すら受けず。道徳実に人に群せず。故に道家の流の長者に道昇というあり、徒衆五人、誓いて師の会に参ず。我れ祖師の道を参得せずんば一生古郷に還らじ。師、志を随喜し、改めずして入室を許す。排列の時に乃ち比丘尼の次に著しむ。世に稀なりとする所なり。又善如といいしは、我れ一生師の会に在て、卒に南に向いて一歩を運ばじと。是の如く志を運び師の会を離れざる類多し。普園頭といいしは曾て文字を知らず、六十余に初て発心す。然れども師、低細に拵いしに依て卒に祖道を明らめ、園頭たりと雖も、おりおり奇言妙句を吐く。故に有時、上堂にいわく、諸方の長老、普園頭に及ばずと。遷して蔵主となす。実に有道の会には、有道の人多く道心の人多し。尋常只人をして打坐を勧む。常にいう、焼香礼拝念佛修懺看経を用いず、祗管に打坐せよと示して、只打坐せしめしのみなり。常にいわく、参禅は道心ある是れ初めなり。実に設い一知半解ありとも、道心なからん類所解を保持せず。卒に邪見に堕在しラ(若+石石)苴放逸ならん。附佛法の外道なるべし。故に諸仁者、第一道心の事を忘れず、一々に心を到らしめ、実を専らにして当世に群せず、進で古風を学すべし。
【拈 提】
 実に是の如くならば、自から設い会得せずといえども、本来不曾染汚人ならん。若し是れ不曾染汚ならば、豈是れ本来明浄人に非ざらんや。故にいう、本来染汚せず、此何をか浄めん。旧カを脱して便宜を得たりと。夫れ古佛の設け、本より一知半解を起さしめず。一処に修練せしめ志を一義にして私せず。故に十二時中、浄穢の所見なく自から是れ不染汚なり。然れども尚お染汚の所見を免がれず。掃箒を用いる眼あり。明らめずして一歳余を経るに、一度皮膚のもぬくべきなく、身心の脱すべきなきことを得て、打不染汚処という。尚お恁麼なりと雖も早く一点を着くる。故に道声、未だ畢らざるに即ち打す。時に通身に汗流れて早く身を捨て力を得畢りぬ。実に知りぬ、本来明浄にして都て染汚を受けざることを。故に尋常にいわく、参禅は身心脱落と。且らくいえ、如何が是れ這の不染汚底。
【頌 古】
 道風遠扇堅金剛 匝地為之所持来 〈道風遠く扇いで金剛よりも堅し。 匝地之が為に所持し来る〉


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◆ 『伝光録』第五十一章(永平道元章)
瑩山紹瑾(1268-1325)提唱

 『伝光録』      瑩山紹瑾(1268-1325)提唱
    第五十一章(永平道元章)

【本 則】
 第五十一祖永平元(1200-53)和尚、参天童浄(1163-1228)和尚。浄一日、後夜坐禅示衆曰、参禅者身心脱落也。師聞忽然大悟。直上方丈焼香。浄問曰、焼香事作麼生。師曰、身心脱落来。浄曰、身心脱落。脱落身心。師曰、這箇是暫時技倆、和尚莫乱印某甲。浄曰、我乱不印汝。師曰、如何是乱不印底。浄曰、脱落身心。師礼拜。浄曰、脱落脱落。時福州広平侍者曰、外国人得恁麼地。実非細事。浄曰、此中幾喫拳頭、脱落雍容又霹靂。 〈第五十一祖永平元和尚、天童浄和尚に参ず。浄一日、後夜の坐禅に衆に示していわく、「参禅は身心脱落なり」。師聞いて忽然として大悟す。直ちに方丈に上って焼香す。浄問うていわく、「焼香の事作麼生」。師いわく、「身心脱落し来る」。浄いわく、「身心脱落、脱落身心」。師いわく、「這箇は是れ暫時の技倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」。浄いわく、「我れ乱りに汝を印せず」。師いわく、「如何なるか是れ乱りに印せざる底」。浄いわく、「脱落身心」。師礼拜す。浄いわく、「脱落、脱落」。時に福州の広平侍者いわく、「外国の人恁麼地を得る、実に細事に非ず」。浄いわく、「此の中幾か拳頭を喫す。脱落雍容し又霹靂す」〉
【機 縁】
 師諱は道元(1200-53)。俗姓は源氏。村上天皇九代の苗裔。後中書王八世の遺胤なり。正治二年(1200)初て生る。時に相師見たてまつりていわく、此子聖子なり。眼重瞳あり、必ず大器ならん。古書にいわく、人聖子を生ずる時は、其母命危うし。この児七歳の時、必ず母死せん。母儀是を聞て驚疑せず、怖畏せず。増すます愛敬を加う。果して師八歳の時母儀即ち死す。人悉くいう。一年違いありと雖も、果して相師の言に合すと。即ち四歳の冬、初て李キョウ(山+喬)が百詠を祖母の膝上に読み、七歳の秋、始て周詩一篇を慈父の閣下に献ず。時に古老名儒悉くいわく、此の児凡流に非ず神童と称すべしと。八歳の時、悲母の喪に逢て、哀歎尤も深し。即ち高雄寺にて香煙の上るを見て、生滅無常を悟り、其より発心す。九歳の春、始て世親の倶舎論を読む。耆年宿徳いわく、利なること文殊の如し、真の大乗の機なりと。師、幼稚にして耳の底に是等の言を畜えて苦学を作す。
 時に松殿の禅定閣は、関白摂家職の者なり。天下に並びなし。王臣の師範なり。此人、師を納て猶子とす。家の秘訣を授け、国の要事を教ゆ。十三歳の春、即ち元服せしめて、朝家の要臣となさんとす。師独り人にしられずして、竊に木幡山の荘を出て、叡山の麓に尋ね到る。時に良観法眼というあり。山門の上綱、顕密の先達なり。即ち師の外舅なり。彼の室に到て出家を求む。法眼大に驚て問ていわく、元服の期近し。親父猶父定て瞋りあらんか如何。時に師いわく、悲母逝去の時囑していわく、汝出家学道せよと。我も又是の如く思う。徒に塵俗に交らんと思わず。但出家せんと願う。悲母及び祖母姨母等の恩を報ぜんが為に出家せんと思うと。法眼感涙を流して、入室を許す。即ち横川首楞厳院の般若谷の千光房に留学せしむ。卒に十四歳建保元年(1213)四月九日、座主公円僧正を礼して剃髪す。同十日延暦寺の戒壇院にして、菩薩戒をうけ、比丘となる。然しより山家の止観を学し、南天の秘教を習う。十八歳より、内に一切経を披閲すること一遍。後に三井の公胤僧正、同く又外叔なり。時の明匠世に並びなし。因て宗の大事を尋ぬ。公胤僧正示していわく、吾宗の至極、今汝が疑處なり。伝教慈覚より累代口訣し来る所なり。此疑をして晴さしむべきに非ず。遥かに聞く、西天達磨大師東土に来て方に佛印を伝持せしむと。其宗風今天下に布く、名けて禅宗という。もし此事を決択せんと思わば、汝建仁寺栄西(1141-1215)僧正の室に入て、其故実を尋ね、遥かに道を異朝に訪うべしと。
 因て十八歳の秋、建保五年丁丑(1217)八月二十五日に、建仁寺明全(1184-1225)和尚の会に投して僧儀を具う。彼の建仁寺僧正の時は、諸の唱導、初て参ぜしには、三年を経て後に衣を更しむ。然るに師の入りしには、九月に衣を更しめ、即ち十一月に僧伽梨衣を授けて、以て器なりとす。彼明全和尚は、顕密心の三宗を伝えて、独り栄西(1141-1215)の嫡嗣たり。西和尚建仁寺の記を録するにいわく、法蔵は唯明全のみに囑す。栄西が法を訪わんと思う輩は、須らく全師を訪うべし。師、其室に参じ、重て菩薩戒を受け、衣鉢等を伝え、兼て谷流の秘法一百三十四尊の行法、護摩等を受け、並びに律蔵を習い、又止観を学す。初めて臨済の宗風を聞て、大凡顕密心三宗の正脉、皆以て伝受し、独り明全の嫡嗣たり。稍や七歳を経て、二十四歳の春、貞応二年(1223)二月二十二日、建仁寺の祖塔を礼辞して、宋朝に赴き天童に掛錫す。大宋嘉定十六年癸未(1223)の暦なり。
 在宋の間、諸師を訪いし中に、初め径山エン(王+炎)(1151-1225)和尚に見ゆ。エン(王+炎)問ていわく、幾時か此間に到る。師答ていわく、客歳四月。エン(王+炎)いわく、群に隨て恁麼にし来るや。師いわく、群に随わず恁麼にし来る時作麼生。エン(王+炎)いわく、また是れ群に隨て恁麼にし来る。師いわく、既に是れ群に隨て恁麼にし来る、作麼生か是ならん。エン(王+炎)一掌していわく、者の多口の阿師。師いわく、多口の阿師は即ち無にしもあらず、作麼生か是ならん。エン(王+炎)いわく、且坐喫茶。又台州の小翠巌に造る。卓和尚に見えて便ち問う、如何か是れ佛。卓いわく、殿裏底。師いわく、既に是れ殿裏底。什麼としてか恒沙界に周遍す。卓いわく、遍沙界。師いわく、話堕也。是の如く諸師と問答往来して、大我慢を生じ、日本大宋に、我に及ぶ者なしと思い、帰朝せんとせし時に、老シン(王+進)という者あり。勧めていわく、太宋国中独り道眼を具するは浄老なり。汝見えば必ず得處あらん。是の如くいえども、一歳余を経るまで、参ぜんとするに暇なし。時に派無際(1149-1224)去て後、浄慈浄和尚天童に主となり来る。即ち有縁宿契なりと思い、参じて疑を尋ね、最初に鉾先を折る。因て師資の儀とす。委悉に参ぜんとして、即ち状を奉るにいわく、某甲幼年より菩提心を発し、本国にして道を諸師に訪いて、聊か因果の所由を知ると雖も、未だ佛法の実帰を知らず、名相の懷標に滞る。後に千光禅師の室に入て、初て臨済の宗風を聞く。今全法師に随て、大宋にいり、和尚の法席に投ずることを得たり。是れ宿福の慶幸なり。和尚大悲、外国遠方の小人、願くは時候に拘わらず、威儀不威儀を択ばず、頻々に方丈に上り、法要を拜問せんと思う。大慈大悲哀愍聴許したまえ。時に浄和尚示していわく、元子、今より後は著衣シャ(衣+叉)衣をいわず、昼夜参問すべし。我れ父子の無礼を恕するが如し。
 然しより昼夜堂奥に参じ、親く真訣を受く。ある時、師を侍者に請せらるるに、師辞していわく、我は外国の人なり。辱けなく大国大刹の侍司たらんこと、頗る叢林の疑難あらんか、只昼夜に参ぜんと思うのみなり。時に和尚いわく、実に汝がいう所、尤も謙卑なり。其謂なきに非ず。因て只問答往来して、提訓を受るのみなり。然るに一日後夜の坐禅に、浄和尚入堂し、大衆の睡を誡むるにいわく、参禅は身心脱落なり。焼香礼拜念佛修懺看経を要せず。祇管に打坐して始て得んと。時に師聞て忽然として大悟す。今の因縁なり。大凡浄和尚に見えてより、昼夜に弁道して、時暫らくも捨てず。故に脇席に至らず。浄和尚尋常示していわく、汝古佛の操行あり。必ず祖道を弘通すべし。我汝を得たるは、釈尊の迦葉を得たるが如し。因て宝慶元年乙酉(1225)、日本嘉禄元年(1225)忽ちに五十一世の祖位に列す。即ち浄和尚囑していわく、早く本国に還り、祖道を弘通すべし。深山に隠居して、聖胎を長養すべしと。
 然のみならず、大宋にて五家の嗣書を拜す。いわゆる、最初広福寺前住惟一西堂というに見ゆ。西堂いわく、古蹟の可観は人間の珍玩なり。汝幾許か見来せる。師いわく、未だ曾て見ず。時に西堂いわく、吾が那裏に一軸の古蹟あり。老兄が為に見せしめんというて、携え来るを見れば法眼(文益 885-958)下の嗣書なり。西堂いわく、或老宿の衣鉢の中より得来れり。惟一西堂のには非ず。その書き様ありと雖も、委く挙するに遑あらず。又宗月長老は天童の首座たりしに就て、雲門下の嗣書を拜す。即ち宗月に問ていわく、今五家の宗流を列ぬるに聊か同異あり。其意何如。西天、東土、嫡々相承せば何ぞ同異あらんや。月いわく、設い同異遥かなりとも、唯当に、雲門山の佛法は是の如くなりと学すべし。釈迦老子何に依てか、尊重他なる。悟道に依て尊重なり。雲門大師何に依て尊重他なる。悟道に依て尊重なり。師此語を聞くに聊か領覧あり。又龍門の佛眼禅師清遠和尚の遠孫にて、伝蔵主という人ありき。彼の伝蔵主又嗣書を帯せり。嘉定の初に、日本の僧隆禅上座、彼伝蔵主疾しけるに、隆禅懇ろに看病しける勤労を謝せんが為に、嗣書を取出して礼拜せしめけり。見難き物なり。汝が為に礼拜せしむといいけり。其より半年を経て、嘉定十六年癸未(1223)の秋の頃、師天童山に寓止するに、隆禅上座懇ろに、伝蔵主に請して、師に見せしむ。是れは楊岐下の嗣書なり。又嘉定十七年甲申(1224)正月二十一日に、天童無際禅師了派和尚の嗣書を拜す。無際いわく、この一段の事、見知を得ること少なり。如今老兄知得す。便ち是れ学道の実帰なりと。時に師喜感勝ることなし。
 又宝慶年中(1225-28)、師台山雁山等に雲遊せし序に、平田の万年寺に到る。時の住持は福州の元サイ(乃+鼎)和尚なり。人事の次でに、昔よりの佛祖の家風を往来せしむるに、大イ(サンズイ+為)(霊祐、南嶽下 771-853)仰山の令嗣話を挙するに元サイ(乃+鼎)いわく、曾て我箇裏の嗣書を看るやまた否や。師いわく、サイ(乃+鼎)、如何にしてみることを得ん。サイ(乃+鼎)自ら立て嗣書を捧げていわく、這箇は設い親き人なりと雖も、設い侍僧の年を経たると雖も、之を見せしめず。是即ち佛祖の法訓なり。然あれども、サイ(乃+鼎)日頃出城し、見知府の為に在城の時、一夢を感ずるにいわく、大梅山法常禅師と覚しき高僧あり。梅華一枝をさしあげていわく、若し既に船舷を踰る実人あらんには、華を惜むこと勿れといいて、梅華を我に与う。元サイ(乃+鼎)覚えずして、夢中に吟じていわく、未だ船舷に跨がらざるに好し三十棒を与えんと。然るに、五日を経ざるに老兄と相見す。況や既に、船舷に跨り来る。此嗣書亦梅華綾に書けり。大梅(753-839)の教うる所ならん。夢中と符合する故に取出すなり。老兄若し我に嗣法せんと求むや。設い求むとも惜むべきに非ず。師信感措く所なし。嗣書を請すべしというとも、唯焼香礼拜して恭敬供養するのみなり。時に焼香侍者法寧というあり。初て嗣書を見るといいき。時に師窃かに思惟しき。此一段の事、実に佛祖の冥資に非ざれば、見聞尚お難し。辺地の愚人として何の幸ありてか、数番之を見ると。感涙に袖を霑す。是故に師、遊山の序に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師来て開華せる一枝の梅華を授くる霊夢を感ず。師、実に古聖と斉く、道眼を開く故に、数軸の嗣書を拜し、冥応の告げあり。是の如く、諸師の聴許を蒙り、天童の印証を得て、一生の大事を弁し、累祖の法訓を受て、大宋宝慶三年(1227)、日本安貞元年丁亥(1227)歳、帰朝し、初めに本師の遺跡建仁寺に落ち着き、且らく修練す。時に二十八歳なり。其後勝景の地を求め、隠栖を卜するに、遠国畿内有縁檀那の施す地を歴観すること一十三箇處、皆意に適わず。且らく洛陽宇治郡深草の里極楽寺の辺に居す。即ち三十四歳なり。宗風漸く仰ぎ、雲水相集まる。因て半百に過ぎたり。十歳を経て後、越州に下る。志比の荘の中に、深山を開き、荊蕀を払うて茅茨を葺き、土木をヒ(手+曳)きて、祖道を開演す。今の永平寺是なり。興聖に住せし時、神明来て聴戒し、布薩毎に参見す。永平寺にして龍神来て八斎戒を請し、日々回向に預らんと願い出て見ゆ。之に依て日々八斎戒をかき回向せらる。今に到るまで怠ることなし。
【提 唱】
 夫れ、日本佛法流布せしより七百余歳に、初て師、正法を興す。いわゆる佛滅後一千五百年、欽明天皇一十三壬申歳、初て新羅国より佛像等渡り、十四歳癸酉に即ち佛像二軸を入れて渡す。然しより漸く佛法の霊験顕われて、後十一年といいしに、聖徳太子佛舎利を握りて生る。用明天皇三年なり。法華、勝鬘等の経を講ぜしより以来、名相教文天下に布く。橘の太后所請として唐の斎安国師下の人、南都に来りしかども、其碑文のみ残りありて、児孫相嗣せざれば、風規伝わらず。後、覚阿上人は瞎堂佛眼遠禅師の真子として帰朝せしかども、宗風興らず。又東林恵敞和尚の宗風、栄西(1141-1215)僧正相嗣して、黄龍八世として、宗風を興さんとして、興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より支えられて、純一ならず。顕密心の三宗を置く、然るに師其嫡孫として、臨済の風気に通徹すと雖も、尚お浄和尚を訪いて、一生の事を弁し、本国に皈り、正法を弘通す。実に是れ国の運なり。人の幸なり。怡かも西天二十八祖達磨大師の初て唐土に入るが如し。是れ唐土の初祖とす。師亦是の如し。大宋国五十一祖なりと雖も、今は日本の元祖なり。故に師は此門下の初祖と称し奉る。
 抑も正師大宋に満ち、宗風天下にアマ(彳+扁)ねくとも、師若し真師に逢て参徹せずんば、今日如何が祖師の正法眼蔵を開明することあらん。時澆運に向い、世の末法に遭て、大宋も佛法既に衰微して、明眼の知識まれなり。故に派無際エン(王+炎)浙翁等皆、甲刹の主となると雖も、尚お到らざる所あり。故に大宋にも人なしと思うて、帰朝せんとせし所に、浄和尚独り、洞山の十二世として、祖師の正脉を伝持せしに、尚お神秘して以て嗣承を顕わさずと雖も、師には隠す所なく、親訣をのこざず祖風を伝通す。実に是れ奇絶なり、殊特なり。然も幸に彼門派として、辱けなく、祖風を訪わん。恰かも震旦の三祖四祖に相見せんが如し。宗風未だ地に落ちず。三国に跡ありと雖も、其伝通する所、毫末も未だ改まらず。参徹する旨豈他事あらんや。先づ須らく明心すべし。
 いわゆる師、最初得道の因縁。参禅は、身心脱落なりと。実に夫れ参禅は、身を捨て心を離るべし。若し未だ身心を脱せずんば、即ち是れ道に非ず。将にいえり、身は是れ皮肉骨髄と。子細に見得せし時、一毫末も得来る一気なし。今いう所の心というは二あり。一つには思量分別、此了別識を心と思えり。二つには寂湛として動せず、一知なく半解なし。此心即ち是れ精明湛然なるを心と思えり。知らず、此は是れ識根未だ免がれざることを。古人之を呼て、精明湛不搖の所とす。汝等此に住まりて、心なりと思うこと勿れ。子細に見得する時、心といい、意といい、識という。三種の差別あり。夫れ識というは、今の憎愛是非の心なり。意というは、今冷暖を知り、痛痒を覚ゆるなり。心というは、是非を弁まえず、痛痒を覚えず、墻壁の如く、木石の如し。能く実に寂々なりと思う。此心、耳目なきが如し。故に心に依ていう時、恰かも木人の如く鉄漢の如し。眼あれども見ず。耳あれども聞かず。此に到りて、言慮の通ずべきなし。是の如くなるは、即ち是れ心なりと雖も、此は是れ冷暖を知り、痛痒を覚ゆる種子なり。意識ここより建立す。これを本心と思うこと勿れ。
 学道は心意識を離るべしという。是れ身心と思うべきに非ず。更に一段の霊光、歴劫長堅なるあり。子細に熟看して必ずや到るべし。若し此心を明らめ得ば、身心の得来るなく、敢て物我の携え来るなし。故にいう身心も脱け落つと。此に到りて熟見するに、千眼を回し見るとも、微塵の皮肉骨髄と称すべきなく、心意識と分くべきなし。如何が冷暖を知り、如何が痛痒を弁まえん。何をか是非し、何をか憎愛せん。故にいう、見るに一物なしと。此處に承当せしを、即ちいう、身心脱落し来ると。乃ち印していわく、身心脱落、脱落身心。卒にいう、脱落脱落と。一度此田地に到りて無底の籃子の如く、穿心の椀子に似て、もれどももれどもつきず、入れども入れども満たざることを得べし。此時節に到る時、桶底を脱し去るという。若し一毫も悟處あり、得處ありと思わば、道に非ず。唯弄精魂の活計ならん。
 諸仁者、子細に承当し、委悉に参徹して、皮肉骨髄を帯せざる身あることを知るべし。此身卒に脱せんとすれども、脱不得なり。捨てんとすれども、捨不得なり。故に此處をいうに、一切皆尽て、空不得の處ありと。若し子細に明らめ得ば、天下の老和尚、三世の諸佛の舌頭を疑わじ。如何ならんか此道理。聞かんと要すや。
【頌 古】
 明皎々地無中表。豈有身心可脱来。 〈明皎々地中表無し。豈身心の脱し来るべき有らんや〉

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 龍=竜 佛=仏 痴=癡 檗=蘗  ※その他 部分的に現代表記で掲載しています